小石原焼は、黒田の殿様が築いた窯で造られた中野焼がルーツ。
 
 小石原焼の歴史は、筑前国が生んだ一大碩学として顕著な貝原篤信(益軒)が二十余年月日をかけて永保六年(1709年)に完成させた「筑前国続風土記」によれば、天和二年(1682年)今の皿山に黒田三代藩主光之公が伊万里より陶工を招き、初期は中国風磁器にならい、中野焼として開窯されたのが始まりで貞享年中(1684~1688年)黒田藩は中野皿山奉行を置いて、商品の量産化に取り組んだと記されています。
天和二年、黒田公の皿山開窯と先人陶工達によるその努力と技は現在迄、村の陶工たちに伝承され、今では小石原の大きな産業となりました。
 下の写真は、皿山での中野焼の起源を明確にするべく、昭和62年(1988年)から平成1年(1990年)にかけて、当家所有地を中心に一部隣接地を調査区域に設定して実施された「上の原古窯跡発掘調査」の光景です。
 発掘された窯は10室から成る登窯で、土層中に高取系の陶器に混じってかなりの量の磁器が出土し、貝原益軒の記録が考古学的に裏付けられました。
 
The Koishiwara-yaki pottery traces his roots to the Nakano yaki pottery made by the kiln which Lord of Kuroda fedual clan, now Fukuoka city, built.
We can study the history of Koshiwara-yaki that, according to "the Chikuzenkoku Zoku Fudoki" , the New climate of the Province Chikuzen written and completed by Kaibara Ekken (Atsunobu) in the sixth year of Eiho , a.d 1709.
who was an erudite scholar and a native son, the lond of kuroda fedual clan the third. Mitsuyuki invited persons of a technical expert as an adviser and in the beginning made them study of a chinaware, them opened the kiln as Nakano yaki and in the years of Teiyo, 1684 ~ 1688 a.d, his fedual clan established the Nakano - Goverment Office, beginned work of mass production.
Now the spirit of a foundation pottery Lord of Kuroda and the successor's efforts and technical art are living animated in artists of Koishiwara village. Nowadays the Koishiwara-yaki is a main and important industry of this village.
 

上の原古窯跡発掘調査



小石原焼やきもの関係年表

和 暦西暦関 係 事 項
文禄  元年1592八山、黒田長政に拝謁。長政の命により後藤又兵衛の家人桐山常右衛門が八山夫婦及び一子をつれて渡海し来る。「高取歴代記録」
慶長 一九年1614内ヶ磯窯開窯。「筑前国続風土記」「高取歴代記録」
元和  九年1623黒田長政没。嫡子忠之が相続。
寛永  元年1624この頃、八山(八蔵)父子朝鮮に帰国を願い出て忠之の勘気にふれ嘉摩郡山田村(現山田市)に蟄居。山田窯開窯。「高取歴代記録」
七年1630八山(八蔵)父子許され穂波郡中村白旗山(現飯塚市幸袋)に開窯。「筑前国続風土記」「高取歴代記録」
承応  三年1654黒田忠之没。光之が相続。八山(八蔵)、白旗山にて没。嫡子八郎右衛門多病のため、次男新九郎が二代となり八蔵貞明を名乗る。「高取歴代記録」
寛文  五年1665二代高取八蔵父子、白旗山より上座郡鼓村鶴(現小石原村大字鼓字釜床)に移り住み開窯。<寛文七年・九年説あり>「高取歴代記録」
九年1669高取八之丞(初代八蔵の孫)小石原中野(現皿山)に移る。「高取歴代記録」
天和  二年1682上座郡小石原の南、中野という所にて国君光之公肥前松浦郡伊万里の陶工を招き、大明の製法にならって瓷器を焼かせる。中野焼という。「筑前国続風土記」
元禄  元年1688元禄年中(1688~1704)に早良郡田島村抱大鉋谷に開窯。(大鉋谷窯)「高取歴代記録」
一七年1704三代目八蔵は鼓より博多奥の堂に移る。大鉋谷窯廃窯。「高取歴代記録」
宝永  二年1705小鹿田窯が開窯。<享保元年説あり>「皿山開基覚書」
享保  元年1716中野皿山陶工数人、早良郡麁原(福岡市早良区)に移り西皿山焼を始める。<寛保元年の説あり>日田領小鹿田にも中の皿山の陶工(柳瀬、長沼)が移り新皿山を開く。小鹿田焼の始まり。「皿山職家旧新記」早良郡麁原(福岡市早良区)に焼物物所が開かれ、藩の御用窯として東皿山と呼ばれた。<宝永五年説あり>「高取歴代記録」
1736頃「天和年中よりの陶製を止めて、享保の末より高取焼にならいて民用に便する磁気を製せり。今陶家八戸、三所にあり。「筑前国続風土記附録」
宝暦  九年1759小石原中野皿山再発の事、願の通り仰せ付けられる。「皿山職家旧新記」
享和  二年1802小石原村武助、同女房などが呼び寄せられ末広皿山(現大分県臼杵市)にて陶業に従事する。
天保  六年1835「筑前国続風土記拾遺」を編纂に当たった青柳種信没、完成に至らず。「拾遺」には「産物、中野にて陶器を製す。酒壷、花器、茶瓶、擂鉢、井樋、などの類、猶々の器あり。竃三所にあり。 天和二年白磁器を製して中野焼といひしが、その製は止めて、高取焼にならひて、民用の諸器物を作る」とある。赤谷村焼物薬石の品質低下に因り、皿山奉行に申し出る。「皿山職家旧新記」
安政  二年1855皿山が衰微していたため金子三十両を借りて村中で分配した。「高取歴代記録」
明治  四年1871廃藩置県により廃藩窯。
三四年1901窯元数十戸、登窯二基(焼成室 九)、職工数十人、窯は共同利用で昭和三十二年頃まで続く。「福岡県統計書」など
四〇年1907窯元数二戸、登窯二基(焼成室二十四)、職工数六人。「福岡県統計書」
大正  元年1912窯元数三戸、登窯三基(焼成室二十九)、職工数十五人。「福岡県統計書」
昭和  五年1930窯元数四戸、登窯四基(焼成室二十)、職工数三十一人。「福岡県統計書」
八年1933登窯三基(肥前窯一基天草より土を買う)以前は徳利、かめ類を主にしていたが現在は樽、徳利、植木鉢、土管を主としている。「小石原盆地の地理的研究」、職工数十五人。「福岡県統計書」
二八年1953柳宗悦氏来村し民芸運動の先例をうける。この頃より一般客や米軍兵士がよく訪れるようになった。「小石原の現状と課題」
三三年1958ブリュッセル世界工芸展で小石原焼はグランプリを受賞し需要増大生産量増加の傾向を示す。共同窯を止めて各窯元が一斉に個人窯を築く。「小石原の現状と課題」
三五年1960皿山区に財団法人日本工芸館小石原分館が設置され、九州各地の古陶器を収集し陳列する。
三七年1962民陶祭始まる。
五〇年1975小石原焼は通産省によって「伝統的工芸品」に指定される。
五六年1981「民陶祭」を「民陶むら祭り」と名称を改める。
五八年1983財団法人日本工芸館小石原分館が小石原工芸館になる。
六〇年1985高松宮宣仁殿下来村。
六二年1987小石原焼古窯跡発掘調査が始まる。上の原古窯跡試掘調査。
六三年1988火口谷1号古窯試掘調査。
平成  元年1989上の原古窯跡本調査。
二年1990窯床1号古窯跡・火口谷1号古窯跡試掘調査。
三年1991窯床1号古窯跡本調査。
四年1992一本杉1号古窯跡・金敷様裏1号古窯跡試掘調査。
五年1993火口谷1号古窯跡本調査。
六年1994一本杉2号古窯跡本調査。
八年1996小石原焼共同陶土整成工場落成。
十年1998小石原伝統産業会館開館。